言葉とは何か v0.2

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言葉に関して言及するとき、そこには3つの要素が登場してくる。言葉と意味とその定義。言葉とはその発する人が意図した何らかの意味、または意思や概念を表現するために用いられるシンボルの集合体のことを指す。そしてその意味を言葉に定着させるために、言葉には各々の意味が定義付けられなくてはならない。

その定義なんかは堅牢な辞典を拝めば得られるものだが、しかし、そんな言葉の定義など何の意味を持とう。定義された言葉の意味など真実足り得ない。その言葉本来の意味とは常に流動的なものだ。

何かを論じようとする時、その論ずる対象の意味を定めないことでは何も語り得ないので、今回はその言葉の定義付けを試みよう。

しかし、やはりと言ったところか、その”完全”な定義など不可能だ。そもそも私たちはその完全な状態というのを知らないし、知り得ないのだから、どうして完全で有り得るだろうか。言葉の定義とは、限りなくその本来の意味に近そうなレンジ全体を示す必要がある。言葉の意味とは常に流動的なもので、その時代、社会、背景、文脈の前後関係などに大きく左右されるものだ。

例え話をしよう。”犬”という言葉がある。一般的に私たちはこの言葉であの可愛らしい、または獰猛な小動物のあの姿を思い浮かべる。犬にも多様な犬が存在し、私たちの思い浮かべるその何かは人間同士お互いに完全一致することはないが、私たちはその曖昧模糊とした何らかの概念を思い浮かべて、それを”犬”だと呼ぶ。このような言葉にはある一定のレンジが定義されており、小さいそれから大きいそれ、可愛いそれから獰猛なそれ、また、人によってそこに苦手心などもついてくることだろうし、時には、実情は狼なのだけれど、私たちはそれを犬だと判断する場合もあるだろう。

その思い浮かべられた《何か》が、本来の意味するところの意味であって、私たちがその《何か》を定義することが不可能なのは、私たちがそれを言葉で言葉を表現しようとするからだ。直接的にその《何か》を電気信号などからしてでも伝える手段があればいいのだが、人間同士のコミュニケーションはそこまで楽にはならないようだ。ただし、私たちは言葉による言葉の定義によって、それに限りなく近づくことはできる。私たちはその《何か》を完全に表現することはできずとも、その《何か》という姿を察することはできるのだ。

だが、困ったことにこの《何か》という意味の存在こそが、時と場合に大きく左右される流動的なものなのだ。

“犬”という言葉がある。これを改めて定義付けることとする。大きな存在にみみっちい小さな点が生えているようなその存在こそがこの《犬》の意味だ。例えば、金魚とその糞のように、大きな金魚に対して、小さな糞が申し訳程度でくっついているようなことを”犬”と呼ぶ。この言葉に読みはない。その漢字そのものでその意味を表す。言ってしまえば、この文章の中、またはお互いに同じ文章を一読した人同士の中でしか有効ではない言葉だ。

ご覧のように、言葉の意味とは常に変化する。《犬》と犬という同じ言葉でさえも、その指し示す意味は異なるし、《何か》と何かでもその意味は別のものを指している。

言葉とは、その意味を言葉で定義しようとする限り、必ず何らか別の言葉(単語や文章)のエイリアス(参照)として機能するのだ。犬という言葉のエイリアスを私たちは限りなく提示することはできるだろう。シェパードとか、コーギーとか、ヨーキーとか、そういった品種の例で説明することだってできるし、生物としてネコ目イヌ科イヌ属の哺乳類だとも言える。
私たちはこういった無限にあげられるエイリアスの総体からその《何か》という存在を察する必要がでてくるわけだ。

こうしてみると、言葉というものにも量子力学との一致点があることが見えてくる。物質をより詳しく見ようとすると、または観測しようとすると、その物はその観測する以前の状態とは異なったものになってしまうことは有名な話だろう。そのため、私たちはその観測しようと思った観測する以前のそのものの状態というのを捉えることができず、その元の姿を知覚するためには、何度も観測を繰り返すことで得られるその近似値の総和からその本来の姿というものを予測するしかない。確率的に移動する量子の雲から、その位置・軌道などを予測するようなことだ。
同様に、私たちが言葉の紡ぎ手によって意図された本来の意味というものを知るためには、その考えられる意味のレンジの中から、その真の意味を予測するしかないのだろう。

もしかしたら、その真の姿なんてものは存在しないものなのかもしれない。それこそイデア論、または図形の三角形のように、そういったものはこの現実には存在しない、形而上の概念の上でしか存在しないものなのかもしれない。

私たち人間同士もまた真に分かり合うことはできないという話も、このことから分かるだろう。そもそも、その”分かった”という状態を定義、または証明することができないのだから当然だろう。また、他人に限らずとも、自分自身さえも、またはあらゆる物事でさえも、真に知ったとすることなど不可能であるわけだ。何故なら、私たちはその近似値を知覚できたところで、その真実がどれであるのかを特定できないからである。言い換えれば、私たちには真実とは何かが分からないし、特定できないし、定義もできなければ、証明もできないのだ。私たちにできることはそれを予測するだけだ。

では、何故私たちはこのように不明瞭な言葉の体系を用いてコミュニケーションを謀ることができるのだろう?
それこそやはり、私たちはその人という数あるエイリアスとしての情報郡などから、その人の発する言葉の意味というものを予測しているからだろうし、実情、コミュニケーションにはそれほど完全に意味を理解しなくとも、例え意図された意味と異なっていたところで、最低限その意味を自分なりに解釈する段階に至れたら通じるのだから、コミュニケーションは成り立ってしまう。逆に言えば、その意味を全く予測することもできないような話であれば、コミュニケーションは成立することができないのだ。

「バーカ」という言葉でさえも人によっては「ははは。バカだなー。この可愛い奴め」という意味が含まれていると思う人もいるかもしれないし、「はっ。この馬鹿野郎。てめぇの頭は軽石でできてるのか?こんな事すら理解できないのか?赤ちゃんからやり直したほうが自然のためにもいいと思うぞ?」と重く受け止める人がいるかもしれない。または、「バーカ。褒め言葉だよ?バカであることは大事なことだし、何より愛らしいバカってのは素敵なことだからね。スマートに且つバカであり続けよう!」という意味が込められているかもしれないし、「は?どういう意味?」と思えばその言葉に意味など無くなるわけだ。
言葉とは千差万別とその発する人と受け取る人、その周囲の状況や環境からもその指し示す意味が常に異なるのだ。

言葉とは何か?
このような1つ1つのパラグラフの総体から予測される《それ》こそが、言葉そのものだ。

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