すべてを知っている

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すべて、という領域は案外単純なもので、私はすべてを知っていると、言えなくもない。
すべてとは、区切りだ。

地球を想像してもらうと分かりやすい。
それがすべてだ。
だが、そのすべての中と外にも世界は広がっていて、それらを含めた上での上次に位置するすべてがまた存在するからややこしくなる。

地球から日本に視点をフォーカスさせてみよう。
そこにもまた、すべてが広がっている。
日本から東京へ。東京から狛江へ。狛江から私へ。私から「私」へ。
世界を認識するのは私だ。だが、この私という区切りの中にも外にもまた、世界は広がっている。

始まりを宇宙とするか、私とするかは単なる設定の問題で、どちらでも構わないし、ましてや一冊の本や、そこに咲いている一輪の花でも、始まり足り得る。始まりはどこにあるか。それは設定だ。問題はそれを意識する私に、その視点が持てるかどうかだ。

すべての中の、一つ一つの要項の狭間にまた世界が広がっている。それが入口だ。
小中高で私たちはすべてを学ぶ。要項Aが真であると学ぶということは、同時にAが偽であると学ぶのと同意だ。
真でしかない要項なんて在り得ないし、偽でしかない要項もない。否、同時にある。
それは単なる立ち位置による視野の問題であって、真偽に問題はない。大事なのは要項だ。
私たちはすべてを知っているはずだ。だが、その入口を見つけてしまった私たちはそれに入り込む。大学ではその間を学ぶのだろう。
では大学院ではどうだ?学ぶことはまだまだある。入口は無限に広がっている。否、いるのではなくて、私たちがそれを見つけてしまう。私たちは厭らしくもその空白を見つけてしまう。

文字と文字の間。そこに意味があるという。どうして私たちはその文字だけに着目することができないんだろう!そこに意味がないからか?否、別の意味が待ち受けている。
入口はそこらじゅうに開かれている!うざったらしくも奥深い穴が!

上次のすべて。それは設定の中心から中へ外へと膨張し続けていく運動だ。
私はそのすべて、という構造を知っている。
だが、決して、すべてのすべてを知っているわけではない。
それは知り得ることなのだろうか?それが私の挑戦だろう。

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